創設趣旨

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私は、この地で生まれこの地で育ち、農家の長男は農家の後を継ぐのが当たり前という時代で育ち、農業も手伝いながら他の産業にも働きに行きました。
私が30歳の時、父親が他界したきっかけで農業を選び、どうせなら農業だけで食べて行こうという目標を掲げ農業法人も立ち上げて県内一の規模を続け県のベストアグリ賞も2回受賞しました。
しかし、コメ余りによる減反政策により、水田生産調整面積がどんどん増加する時代の中で、当地域は湿田地帯であり他の作物に切り替えも行えず周囲には耕作放棄地が年々増大をする状態が続きました。
 
そして、地域では農業後継者も少なく地域の多くの農業者は高齢になり、年々離農する農家も増え続け、益々耕作放棄地も増え、このままでは残った農家だけでは農業が出来なくなり、農地と非農地への選別が必要となる状態が現実となりました。
これまで農業政策は長い間において転々とし、一律な政策であり、水田への助成金は年々減少する中で農業の活性化などありえない状況です。
 
現在、世界の人口は増加を辿り何れは食糧問題が必ず起こる。
その様な状況の中で地域の農地の荒廃は益々進んでいくという全く馬鹿げた状況を見過ごしてはいけない
誰かが声を上げて行動を起こすべきであり
その役目を私がやろうと準備して参りました。

私は、農家に生まれ高校卒業後は家業の農業も手伝いながら社会に出て働いていました。

30歳の時、父の突然の他界で会社を辞めて農業に就きました。
その時、どうせなら、農業だけで食べて行けるようにと考えて、すぐに任意農業組織を立ち上げて
平成6年には農業法人を設立して30年が経ちました。
私は、その時の目標が60歳で引退し後継者に渡そう
そう決めていたのです。
 
しかし、農業を取り巻く環境はどんどん悪くなるばかり・・・
後継者に後を継いで、将来の食糧不足の為にも農地を守ってほしい!
そんな事言える状態ではありません。
 
私はこれまで長い間、どうやったら自立した農業が出来るのか
若い人たちが農業に夢を持てるのかと考えてきました。
それには
まず、自分が実際に農業の仕組みと問題の原因を徹底的に追及してみようとやってきました。
私は勉強はもともと好きじゃありませんが、30歳からは猛勉強しました。
平成元年からパソコンの勉強も始め
実際に、農業生産、法人経営、会計、販売、流通、農業政策、法律、金融等 一通りやって課題も纏めてみました。
様々なジャンルの先輩(師匠)からも学ばせて頂きました。
 
何でも実際にやって見ないと解らない
ところが、だんだん解ってくると、なんかおかしいね
 
以前は、県内TOPの農業規模、当町の唯一の農業法人も長く続け
山形県ベストアグリ賞も2回受賞しました。
 
経営は継続が大事です。
実際は、経営には数字しかないのです
その為には自分への嘘さえ必要になります。
でも、私はそういう自分に我慢が出来なくなってしまいました。
私は、見て見ぬふりが出来ないんですよね
 
昔は大変でも面白かった
団塊の世代の多くの人からも、その声を聴きます。
 
なんでなんだろう・・・と考えてきました。
昔はもっと自由があった
自分の発想で新しい事にチャレンジも出来た。
 
その原因の一つに規制が余りにも厳しくなって
新しい事をやろうとしても行き詰り、諦める事がおおくなりました。
農業にしても同じことが言えます。
 
農業崩壊はすぐそこまできています。
なのに、誰も動こうとはしない
確かに農業問題は難しい
 
私、これまで様々な会議にも出席してきましたが、常に難しい問題は先送りされてきた事を目の前で見てきました。
 
食糧や肥料を輸入に依存する我が国は、それらの国際相場にも左右される。
我が国は既に先進国でもない。
この先どうなるのかは誰も解らない
 
じゃあ、将来の自分の食糧は自分で確保しよう・・・
一番無駄のない方法は、生産者と消費者が手を組む事からだ
このモデルは、必ず世間に影響を与える。
私は、そう考えました。
 
私は、当町長に、今この現状で後継者に農業を継いでもらいたいと言えますか
尋ねました。
言えねえ との回答でした。
 
じゃあ、何とかしなければいけなよな
俺やって見る、
 
お前のやりたいようにやれ との事でしたので 私はやりたいようにやらせて頂きます・
<m(__)m>
 
もし、失敗したら農業はもうやめます宣言です。
息子もその時は辞めると言うので、困りました。

農業は複雑だ、土地所有者、農業者、集落、関係機関、流通関係者、束になっても困難だ。
 
この仕組みを一度ぶっ壊す事が必要ですね。
 
その為に、これまで準備を進めてきました。
今、その時がやってきました。
世の中は、現実が目の前に来ないと動かないのです。
本来、先を見越してやるのが政治なのですが、あてになりません。
 
改革は、民間が先頭を切って進めないと出来ません。
誰かが始めないと、進まないのです。!
 
農業は知り尽くした人間が内部から変えたほうが早い。
 
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私の粗筋・・・・
私は農家に生まれ育ち子供の頃から農業を手伝いました。
若いころは他産業で働き社会勉強しました。
農業だけで生きて行こうと思い農業法人も30年前に立ち上げました。
これまで様々な事業もやってきました
普通なら補助金頂いてそこそこの経営が出来れば満足なんだろうけど、自分は満足が出来ないんです。
特に稲作には自由が無い。
稲作しかできない地域に米を作るなと言われる事は死活問題です。
特に東北、山形は一番の馬鹿真面目な県と私は感じました。
今、ようやく誰でもお米を自由に販売する事ができるようになりました。
でも、今もなお、県の方針に従わない場合はつや姫等のブランド米の栽培が許されないのです。
私は、農業という仕組みがおかしいと私は思いました。
 
農業者の減少に歯止めが効きません。
今の農業は昔と違います。
昔は大変でも「楽しさ」や「夢」を持つことが出来ました。
 
私は、今の農業環境下では、とても後継者に後を継いでくれなどとは言えません。
若い人たちが「夢」を持てる農業をどうやったら出来るのかを長い間毎日毎日考えてきました。

私は東北でも早い時期に農業法人を設立して様々な機関・業界の方ともお会いできました。
これまで様々な事業を通じて農業を熟知してきました。
また、地元の政治にも政治家にはなりませんでしたが、実際に関わって見てきました。
 
農業を変えたいと思っても容易な事ではありません。
農業を変えるには、自分が変わるしかないのだと気付きました。
誰かがやってくれるだろう・・・変えてくれるだろう
そんな事を考えるなら、自分がやったほうが手っ取り早いという事です。
 
私は、農業という「概念」を改める事だと思いました。
まず、私は一度築いた自分の歴史を壊し
次の世代の若者が農業に「夢」を持てるようにしてあげようと準備してきました。
 
これまで様々な準備をやってきました。
今年になってから全関連サイトも自分で作りました。
頼んでいたら、多額の制作費も必要、いつになるか解りません。

これまで、デジタルが進むのを待っていました。
やっとその時が来ました。
 
昔、一揆をやれば親方は責任を取って処罰されました。
でも、この時代に殺される事は無いでしょう。
たとえ、そうであっても私の役目だと思っています。
 
もう地域農業は崩壊目前です。
でも、多くの農家や農業者はこのような事は出来ません。
 
私は、まずは私、私のスタッフと賛同する消費者が一緒に農場を目指そうと考えました。
食糧問題は既に始まっています。
将来この問題は必ずやって来ると多くの人たちは心の中で不安を抱いています。
 
何が正しいかはやって見ないと解りません。
私はこのやり方は世間に大きな影響を与えると考えています。
問題があれば、常に修正して行けば良いのです。
 
農家はこれから急減します。
この地域では、子供に生きているうちに農地を処分してくれと言われて頭を抱えている農家もいます。
 
私はこれまでお米は田んぼに直接種を播いて育てる栽培を研究してきました。
病害虫の防除も一切止めました。
害虫が増えれば、益虫やその他の天敵が増える。
これが自然なのです。
田んぼに雑草が一切生えていない事が不自然なのです。
何れはこの栽培方法も当たり前になると思っています。
 
人生は一度しかありません。
今思えば、このために様々な経験を実際にやらされて勉強させられてきたのだと思います。
宿命。
 
私は昭和32年生まれ
小さい時から農家の後を継ぐのが当たり前のように親に育てられました。
農家の父は勉強する必要はないと言いましたが、母親は商店の娘で女学校を卒業して先生にもなれるはずだったそうで習字やそろばんの塾に通わされました。
自分は、子供ながら親に対してそんな習い事して何になるのと思って反抗的でしたが
案の定、今では出来なくても困らない時代になりました。

私はそもそも農業が嫌いで、農業高校を卒業して家の手伝いもやりながら他産業に働きに出ました。
同級生は車関係の仕事に就いた者が多かったと覚えています。
当時、農業高校を卒業した同級生で農業専業に継いだのは1人と記憶にあります。
でも、家業が忙しい時は会社を休んで手伝いました。
小さいころから親の大変さを見てきたので放ってはおけませんでした。
 
昭和62年春、私の父が急に他界しました。 
私がちょうど30歳の時でした。
この時、私は当時絶好調のICチップ製造工場で働いていました。
子供2人を育てるために交代制勤務で農業もやりながら働いていました。
その年は1人で農業をやりながら会社に勤め、忙しい時には会社で立って寝る事も経験しました。
このままでは体がもたない、どちらかを選ぶべきだと考えていました。
 
私の家は田舎の本家であり、当時冠婚葬祭も非常に多かったのです。
全て父に代わって自分が務めなければいけませんでした。
祖父母、父母の多くの兄妹もたくさん現役でした。
隣組に不幸があればお手伝い3日で済めば良い方でした。
父が亡くなり、その年の父の役目の2件の仲人も自分がやる事になりました。
これまで、たくさんの親族を見送りました。
私は、お努めご苦労様でしたと言うようになりました。
人生は長いようで短い
いま、父親に感謝しています。
だから今の自分があるんだと・・・
 
そんな時、誰かが後ろで囁くのです。
お前は農業をやれ・・・と
それ以降も誰かが囁くのです。
50歳になって次は、いまやろうとしている事を囁かれたのです。
でもその前から準備はしていたようです。
 
誰がいったい後ろで囁くのか、これまで散々考え調べてきましたが
本来の自分なのか、自分の遺伝子がそう言っているのかとも考えました。
でも、まだわかりません
 
(昭和62年)
私はその年の秋、会社を辞め秋から本格的に農業を始めました。
まず考えたのが、どうしたら農業だけで生活して行けるのか
でも、農業はそんなに甘くはない
でも、不思議にいつも応援してくれる人が現れる
 
その年の秋には最初の機械を買って農家の請負を始めました。
翌年には、農業機械の請負と米の共同生産をするために農家3人を集めて任意組織を立ち上げました。
今は、当たり前だけど、当時では農業機械作業受託(請負)など、ここら辺りではない時代でした。
当時、町単独で農業機械利子助成なるものがあり、最初のトラクターを購入する為に申し込みしました。

農業の請負をする機械に助成する事に対して問題にもなりました。
今では笑い話です
以降も、今では笑い話は数え切れません
でも、先を見越している農協役員さんが、いずれそうなるんだからと皆さんに説得してくれました。
この時のクボタトラクターは今も健在です。
このころの機械は丈夫でした。
 
農業法人誕生(平成6年)
参加する農家も5件に増え、作業・生産を委託する農家、離農家も増えてきました。
組織を法人化しました。
ここから法人の会計・税務も猛勉強しました。
 
(なぜ法人化)
平成5年の大冷害
この辺は2割の減収に留まりました。
でも価格の高騰や共済金まで頂いて、税金をなんでこんなに支払わなけらばいけないんだ。
農業法人化したほうが税のメリットがあると判断し法人化しました。
ところが、平成7年はこの地域の収穫量がガタ落ちしました。
設立2年目で赤字決算をすることになりました。
世の中うまく出来ていると感じました。
ここで図に乗るなという事もわかりました。
 
農家の組織
農家が集まって組織を作るという事は難しい・・・
そもそも農家も自営業 農家は我がままが多い
15年は続けただろうか・・・
構成員の口にした言葉で私は激怒しました。
自分が動けるうち働ければいいんだ・・・
 
百姓の多くは「我田引水」
自分の田んぼに水がくれば良いのだ
でも、事業は継続する事が一番大事なのです。
それには後継者を育てるという事です。
今は、農作物と同じに育つ環境が重要なのだと痛感しています。
 
百姓、農民、農家、農業者、農業後継者、新規就農者、農業経営者
時代によって様々な呼び名に変わってきました。
こんなことを書いていたら、書き終わらないので各サイトに書いていきますので見てください。
 
これまで、様々な事業やってきて、様々な賞も頂きました。
考えてみれば地域で水田農業主体で食べていく為に様々な事業やってきたんだと今では思うようになりました。
でも、国は転作を廃止し、一切のペナルテーも廃止したのに、米の生産調整がいまだ続いています。
わが県は、生産調整に参加しない農家には、「つや姫」、「雪若丸」の栽培を認めないのです。
県が種子育成したからとはいうものの、税金ですよね
県民が安く食べられるようにするのが行政でしょう、と私は言いました。
誰もそんな事、口に出して言えません。
 
これまで、農政を長く見てきました。
これまで関係機関には言うことは言ってきました。
でも、関係機関に言っても現場は何も変わりません。
変えるには自分が変わるしかないんだという事です
 
「農学栄えて農業滅びる。」
まさに、それが今なんだと感じています。
 
 
農業問題
今も心に残る言葉。 
ある農水省幹部の言った言葉
私は、これまで農業法人を早く立ち上げた事もあり、多くの関係者とも話をさせて頂きました。
20年も前になるのか、ある農水省幹部がわざわざ来所されて
このままでは農業が駄目になる
何とかしなければいけないのだが、できないんだ。
と言う言葉をお聞きしました。
 
当時も何となく理解が出来ましたが、その原因も解りました。
 
農業問題は行政、関係機関、農家、農地所有者等が纏まっても解決できない根深い問題と私は解釈しています。
当町議会見ても農業議題は数少なく、原因も解っていないから解決策など出る訳も無いのです。
 
農業問題 歴史に学ぶ
簡単に農業問題を纏めれば、今の農業は戦後の農地解放からの施策に対し、時代に合わせて改革を行ってこなかった事が一番の原因でもあります。
これまで地方には多くの農家が存在し、いわゆる補助金のバラマキを選挙に利用してきた政党も一つの原因と考えます。
現在でも農業は他産業に比べ、まだ多くの農家(個人事業主)が存在します。
この方たちは戦後から昭和26年生まれの農家が多く、この世代の農家の方たちは、戦後の競争社会の中で育ち、競争・闘争心も高いという点が農地集積も阻害する原因でもありました。
また、地方集落は特に嫉み僻みも強く『隣の家に蔵が建つと腹が立つ』という事です。
でも、その世代の農家はこれまでの地域社会を築いてくれた事は事実です。
しかし、その大多数の農家が高齢で離農、縮小を始めたのです。
だから急激な減少を始めたのです。
 
また、農家は息子たちを儲からない大変な農業に継がせたくない。
他産業やお役所、関係機関に勤めさせたいという思いと、息子たちも農業やりたくないということです。
 
(農業は工業の犠牲)
日本は、国土も狭い資源も少ない、食糧はそもそも自給できないという考えもあり輸入に頼るほかは無い
工業製品を輸出して国益を得て食糧・農産物を輸入すれば良いという考えや諸外国からの圧力があったと考えます。
つまり農業は工業の犠牲ということであり、農家に補助金を与え、そこそこに生かせばよい
昔から「百姓は生かさず殺さず」と言った事でしょう。
 
しかし、近年は地方農家にバラ撒きしなくても選挙に影響が出なくなった事が解り、農業助成金の減額も行われ、農業も苦境に立ってきたという事だと思っています。
 
戦前戦後において、この国は食糧難であったという事でまず、米の増産を行いました。
最大の変化は化学肥料による農産物の増収が大きく影響しています。
万一の場合の主食である米を確保する政策が長く続いたという事だと考えます。
しかし、このままいけば必ず米も自給できない状態に陥ります。

(士農工商)
これまで日本の農業は地主と小作、武士と百姓の時代が長かったことが日本人の遺伝子情報に記録されているのかもしれません。
行政(武士)農業(百姓)工業(職人)商業(商人)
一番古いのは農業、そこから武士、商人、工人が増えていったという事です。
しかし、現在は士・商・工・農と、私は思っています。
 
農地
現在、これまでの歴史上に無い事が起きています。
多くの地主と数少ない小作人の関係は歴史上初めての事態であり、これまでの常識では解決できない問題と私は捉えています。
新規に農業をやりたいと思えば農地を借りるか購入して農業委員会の許可が必要です。
でも、農地は相続になるのです。
 
日本の多くの農地、景観は水田が担っています。
また、多くの多面的機能が農業、農地にはあります。
今も、水田が農業の主体です。
アジアは水があるから水稲
水が無い西欧は小麦
草原は家畜が草を食べるから出来る
これが自然なのです。
 
将来の農業
養鶏が企業になり、次は畜産も企業、畑作も企業化しつつ、次は稲作が企業へと変わる。
稲作には高額な投資も必要。
果樹は災害リスクも非常に大きく機械化も遅れますが、いずれ企業化します。
 
農業者が農業をやる時代ではなくなるのかもしれません。
その時は、消費者は覚悟しないといけなくなります。
 
これまで、農家に補助金を与え食糧や食品工業向けの農産物を安く供給されてきたのですが
その時代も終わると私は考えています。
 
当関連サイト、情報センターの日本の食糧を見てもらえばわかりますが
日本は野菜は自給できる。
山菜も豊富です
畜産のエサはほとんどが輸入に頼る状況
穀物は米の3倍量も輸入しています。(飼料も含め)
多量の乾燥牧草の輸入
 
これからの農業経営は高度化します。
デジタル人材不足(農業だけではない)
 
様々な農業のかたちが有ってよい
条件は地域で様々なのです。
地域資源を最大限に有効利用する事が大事なんだと思います。
 
私は、これまで地域では多くの先輩農家の下でやってきました。
はっきり言って疲れました。
幾人かが、やりたいようにやれと言ってくれました。
自分の余生は
これをやる事に決めました。

地域農業問題

地域の農業問題等を纏めたコーナーです。
事業後継者募集

「事業後継者募集」